陽の沈む国へ〜Anti Atlas and Ouarzazate

ガイドのモハメッド

マラケシュの喧噪と寒さにほとほと嫌気がさしてくる。バスチケットを購入し、砂漠への入口ワルザザートを目指した。

2004/12/29(Wed:第5日)アトラス越えとガイドのモハメッド<マラケシュ 晴れ ワルザザート 晴れ>

マラケシュ民営バスターミナル10:00-(Trans Almou Draa)-15:10ワルザザート民営バスターミナル〜Hotel Amlal(ワルザザート市内観光)
ワルザザートへ
またしても寒い夜が明け、朝食を食べようと部屋を出る。ホテルは寝静まっていた。フロントに行くと、ドアがしっかりと閉ざされ、電気もついていないが、すぐさまフロントから、人の良さそうな男性が顔を出し、ドアを開けてくれた。ドアの中を覗くとそこにもベッドがあった。
少し内容を変えてみた昨日も朝食を取ったサロン・ド・テで朝食セット<右>を食べる。ミント茶は同じだが、パンケーキを選ぶ。が、運ばれてきたのは、クロワッサンやコルネット(註1)にも似た菓子パンのようなものであった。中に甘い餡が入っている。20DH(註1…イタリアのバルなどで食べることのできる餡の入ったパン。三日月型でクロワッサンと似ている。)
部屋に戻り荷物のパッキングをして、チェックアウト。残りの150DHを払う。今度のフロントは、薄暗い中、サングラスをかけ、毛糸の帽子を被ったブラックアフリカ系の顔の男性だった。荷物を担ぎ、バス停まで行こうとするが、ここでプチタクシーの運転手が声をかけてきた。そのタクシーに乗る。ドライバーは、父親だという老人を後部の座席に乗せ、バスターミナルへ。フランス語でいくらだと訊くと、20DHとのことだった。この時はまだメーターが付いているということに気づいていなかったので、倍以上はぼられていることになるか。
モロッコバス事情
タクシーを降りると、客引きのような男性が待ちかまえていた。荷物は渡さなかったが、行き先を聞かれ勝手にバスに案内される。モロッコのバスでは大きな荷物には荷物代(註2)が請求される。荷物係に荷物を渡すと、「この男性に10DH払ってくれ」といわれる。これは仕方ないとは思うが、この料金も民営バスの場合ほとんど気分次第のようである。次に、案内の男性(註3)は、「いい座席を取る」とのことで、中程から後ろに入った左側の座席に座るよう指示した。ここでチップの請求である。はじめは、10DHとかいっていたが、半額5DHに値切る。まったく、バスにたどり着くまで、負け続けであるな。(註2…荷物はバスの車体に収納される。その際に請求がある。国営バスの場合も、荷物代があるが、荷物用のチケットを発行され、預けたあとはすべて係が収納するシステムのため、余計なチップが発生しない。民営バスの場合は、荷物代プラスチップ込みのような曖昧なこともあると思ってよい。)(註3…はっきりいって従う必要はない。席は自由である。ただし、発車してからの席の移動などで、バスの助手が席の移動を命じることはある。)
バス会社の言い分では、30分前までに来るようにいわれていたが、それよりも早く到着している。車内は数名客がいた。そのうちの一人が話しかけてくる。「どこに行くの?」とのことで、行き先を告げるが、「モロッコにようこそ。僕はフランス語は話せるが、英語はあまり話せないんで、これで失礼するよ。すまない」と言い、自分の席に戻っていった。至って普通の旅行者らしい。
バスは出発が近づくと次第に客が増えてきた。気が付くとほぼ満席に近い。自分の席は、窓側に荷物が置いてあり、まだここに座られるということはなかったが、バスがエンジンをかけ、そろそろ走り出すかという頃、長髪、髭、ピアスという男女6人組(註4)が現れ、バスに乗り込んだ。自分も座席を詰めるが、もう座席はないようで、数名は立ったままで出発となった。(註4…今時珍しいが、ヒッピーという言葉を使いたくなるような連中であった。徹底的な貧乏旅行を楽しむ、ドイツの青年たちらしかったが。インド・ネパール方面に行くと、崩れた連中もまだいるらしい。)

マラケシュを出てしばらくした頃 雪のオート・アトラス 山から流れる川 山道となる

が、バスは、マラケシュ郊外のガソリンスタンドでしばらく停車し、ここを出たのが、10:30をかなり回っていた。ここからはなだらかな登り<上左>となる。バスの作りはかなり古いもので、もちろん暖房はない。だが、あまり寒さは感じなかった。バスは次第に客を拾い、通路はいよいよ乗客であふれてくる。次第にオート・アトラスの山も近づきはじめ、雪を被った山<上左中>が見え始める。道はいよいよカーブが多くなり、山の中<上右中、上右>に入ったようである。
アトラス越え
2時間くらいたったところで、運転手がなにやらいい、休憩となった。アトラス直前の本格的な登りにかかる前の山中の村<下左>である。向かいにあった食堂でトイレの場所を聞き、戻ってミント茶を注文する。パンはいらないのかとも尋ねられたが、これはいいだろう。何しろ、モロッコ人はバスなどに弱い人も多いらしく、時には車内が嘔吐物で悪臭が充満してしまうこともあるらしいからである。そのために、普段は用意しない乗り物酔いの薬(註5)なども購入したほどなのだ。この時は様子見で、服用はしていない。ひどいものだったら、次から使うつもりではいた。ミント茶は5DHで、その後は食堂のテラスやバス周辺を少し見て歩いた。テラスからはアトラスの山並み<下左中>が少しだけ望めた。バス周辺では、土産物屋<下右中>や簡単な食堂<下右>などがあり、ここでも声がかかる。(註5…結局、使用することはなく、その後は入眠剤とさせてもらった。)

休憩 テラスからの眺め 絨毯屋 アトラスへ続く道

運転手がバスのエンジンをかける。それを見て座席に戻る。運転手は何度もエンジンを吹かし、クラクションを鳴らす。これが出発の合図らしく、荷物係の助手も人数を数えているようだった。
雪のオート・アトラスここからは、いよいよ登りにかかり、カーブもきつくなってくる。マラケシュからの道路は、簡易舗装(註6)というもので、路肩が舗装されていない。それがいよいよアトラスにかかり、路肩には雪が残っているようになった。バスは対向車がいないようなところでは、センターラインを無視して、曲がりやすい動き方をしているようであった。道路上は路肩を除き、雪は一切なかったが、山肌<左>は一面に雪が積もっていた。しかし、そんなところでも、物売りがいたり、簡単なレストハウスのようなものもあった。2260という数字を書いた建物を過ぎる。ここからは下りとなる。今のが、標高2260mのティシュカ峠らしい。かなり上がってきているのだが、不思議と耳には変化は起こらなかった。バス内が気密を保っていないからかも知れない。(註6…インドあたりでは当たり前の舗装。舗装部分は対向車線を含め、1.5車線分くらいしかなく、追い越しをかけて対向車が現れた場合、かなりの緊張を要する。対向車は舗装していない路肩に逃れたりする。)
先ほどの休憩と客の乗降を除き、バスはワルザザートまでノンストップであった。モロッコの道には、キロポストが設けられ、その道の先の都市名がアラビア語とアルファベット表記で残りのキロ数とが表されていた。これは1キロごとに置かれていたが、この場合は、ワルザザートが現れたと思ったら、次のキロポストには、その先のアグデス、次には、ザゴラというように3〜4の都市名があり、あとどのくらいかという目安にはなる。
ようやくワルザザート

まだ緑がある 樹木のない世界 バス待ちする人たち 再び砂漠

アトラスを越えてしばらくは、緑も多く畑などのある集落<上左>が続いていたが、大きな石が山の斜面にごろごろしているような箇所も通る。落石防止の措置は取られてなく、危ないなと思った。次には、平坦な道となり、樹木も減ってきた。赤茶けたむき出しの大地<上左中>である。いよいよ砂漠への入口らしい。たまに、城塞化したカスバ(註7)である、クサル(註8)というものが現れるようになる。大きめの交差点<上右中>(註9)が現れ、人々がバスを待っているようだった。が、またもや何もない風景<上右>が続く。やがて、映画のスタジオらしきものが現れ、いよいよワルザザートなのだという気がしてきた。ちなみに、ワルザザートでは映画のスタジオ(註10)があり、ここで世界的な映画も撮影されているのである。(註7…Kasbah。城塞、支配者の居住地。メディナの一角にある場合と、地方の砦、地方官の館、それらを含む城壁で囲まれた町全体を指す場合がある。ワルザザートからティネリール、エルフードにかけては通称カスバ街道と呼ばれる。)(註8…Ksar。日干し煉瓦で作られた集落。砦のように城壁で囲まれた城塞的な村。)(註9…ここがアイト・ベン・ハッドゥへの分岐点であるばかりでなく、タルーダント方面への分岐点なのであった。)(註10…Atlas Corporation Studio。このあたりでは、「アラビアのロレンス」「シェルタリング・スカイ」などのロケも行われている。スタジオは入場料を払っての見学も可能。)
ワルザザートのバスターミナルに到着。バスの車体の荷物収容のドアが一部開かず、やきもきしたが、自分の荷物には何ら異常はなかった。これを担いで歩き出すと、宿の客引きだろうか、声をかけてきたものがいたが、これを無視。バスターミナルから町の中心に向かって歩き出すが、いったん道を聞く。さらに歩いていると、声をかけてきた男性がいた。
ガイドのモハメッド登場
「どこに泊まるのか?」とのことで、あたりをつけておいたホテルの名前を告げるが、どうやらガイドらしい。「このあと、カスバを見に行かないか?」とのことで、宿まではタクシーを使って案内するとのことだった。よくわからなかったが、この男性に従ってしまう。彼は、プチタクシーを止めると、こちらの荷物を屋根のキャリーに載せ、ホテルに向かった。男性が払った料金は、5DHであった。
ホテル・アムラルは、1泊100DHと、マラケシュに比べると各段に安い。部屋<下左>は古びていたが、トイレ<下左中>シャワー<下右中>もあり、ここに決めた。もっとも、シャワーは給湯器(註11)だったので、お湯を使い切ってしまうとしばらく待たなくてはならないのだが。バルコニー<下右>付きというのも、気に入った。ここに洗濯(註12)したものを干すことができる。(註11…いわゆるガス湯沸かし器でタンク内を一定の温度に保っている。湯がなくなると、水を足すので、温水が出なくなるというもの。しばらく待てば回復する。かつてカンボジアとタイでこのシステムは目撃している。)(註12…冬のモロッコでは洗濯に苦労した。洗うことは容易だが、なかなか乾かない。また、ハンガーが備えられているホテルも少なかった。なので、バルコニーはありがたいのだが、部屋からここに出るドアの立て付けが悪く、ロックしてしまうと解除にひどく時間がかかった。)

ツインルームのシングルユース トイレ 給湯システムのシャワー バルコニー

案内の男性は、モハメッドといい、アルバムにたくさんの写真を入れていた。これから、ワルザザート郊外にあるカスバを訪ね、翌日、世界遺産でもあるアイト・ベン・ハッドゥ(註13)に400DHでどうかとのことだった。「料金が気になるならば、そのガイドブック(地球の歩き方)にも書いてあるので、調べてみろ」とのこと。少しゆっくりしてみてもよかったが、これから自分でこれらに行く手段を考えるとかなりめんどくさいので、OKする。ただ、モハメッドは、フランス語(註14)は堪能なようだが、英語はかなり怪しい。コミニュケーション手段を取るのに、かなり苦労しそうである。(註13…Ait Ben Haddou。クサルのひとつで、世界遺産に指定されている。)(註14…モロッコはフランスに分割統治されていたこともあるので、かなりの割合でフランス語が通じる。ただし、英語はあまり通じない。そのためかどうか、フランス人旅行者はかなり多い。)
普段ならば、荷物を整理してから出かけるのだが、もうあまり日没まで時間がないため、適当に放り投げて出かける。モハメッドは、町の中心部まで歩き、流しのプチタクシーを拾った。途中日本人の男性を見かける。かなり旅をし続けているようなタイプに見えた。
タウリルトのカスバ
これから行くのは、タウリルトのカスバである。かつて、グラウイという、ベルベル人(註15)の将校のような人物が居住していたところである。タクシー<下左>は、10分もしないうちにタウリルトのカスバ<下左中>に到着する。ここに入るのには、入場料10DHが必要だが、モハメッドと一緒であるからか、それは取られなかった。ただし、チケット売り場らしきものは見かけなかったのだが。(註15…Berber。モロッコ・アルジェリア・チュニジアのマグレブ三国の先住民族。もともとは、野蛮人という意味のバルバロスから命名された。女性は顔に入れ墨をする習慣があった。モロッコでは、民族間の差別はないことになっている。ハッサン2世の夫人の一人はベルベル人であった。)

助手席からの眺め タウリルトのカスバ外観 カスバの人家 立ち話をする住人

どうもこの人は、ここの住人なのかも知れない。入場してすぐのところで、知り合いらしい女性と話し出した。それによれば、お茶でも飲んでいけばとのことだったが、あまり時間もないことからお断りする。そこから生活臭が漂う、人家<上右中>の手前まで案内され、身振りではあったが、この角度で写真を撮った方がいいとか、とても嬉しそうに示していた。モハメッドの嗜好としてアーチ<上右>状のものの中から風景を撮すことが好みのようであった。また、写真を嫌がるベルベル人も、気づかないうちに撮れという指示も出す。

力仕事をするモハメッド 干された洗濯物 ベルベルの少年 モハメッドに撮ってもらった

カスバの広場のようなところで、女性が斧で木を切っていた。中身を食べるとのことで、モハメッドが挑戦<上左>すると、なかなか切断できない。この人は見た目も華奢なので、あまり力仕事には向いていないのかも知れない。先ほどの女性の方が身長も高く、たくましいくらいである。悪戦苦闘して、ようやく仕事が終わる。周りで見ていた人たちも、爆笑していたほどであった。このあたりは、中央が高く盛り上がった広場のようなところで、井戸などもあるようであった。その高いところに洗濯物<上左中>が干されている。この頃から、見事な青っ洟の小僧<上右中>がついて回るようになる。この少年をポートレートに撮って、ここをあとにする。また入口まで戻ったが、ここで記念撮影<上右>をする。モハメッドもデジカメ(註16)の操作には慣れているらしく、よく写っていた。(註16…この旅を機会に、Cannon IXY digital 500という機種にした。デジタルカメラは、この頃になると旅行者は持っていて当然の感があり、撮す機会の多いガイドたちも、操作になれているのだなと思った。ただし、モハメッドは一眼レフの方は決して撮ろうとはしなかった。)

共同の水道 雰囲気のある水道 カラフルなドア シンプルなドア

これで終わりかと思ったら、そうではなく、道路に面していないカスバの端の方から再び中に入り、水道<上左、上左中>とか人家のドア<上右中、上右>とかまたしても生活臭あふれる場面を案内してもらう。どうもイメージ的にカスバと聞くと、ひどいものがあったようだが、ここには電気も通っているし、中には自家用車を所有している人もいるようであった。ただ、違うのは土壁の家屋<下左>であることくらいである。時には、モハメッドは土産物屋らしきところに案内し、ここでものを買わせるのかと思ったら、そうではなく、このテラスから写真を撮ったらどうかという、ことを示す。ここからの眺め<下左中>はよかった。カスバが見渡せた。振り返るとここは絨毯屋<下右中>のようでいくつもの絨毯がディスプレイされていた。カスバの中には、トンネル<下右>のようなところもあった。これはちょっとと思ったのは、モハメッドがどんどん人家の中にまで入り込んでいったことで、ここでの撮影はさすがに遠慮したほどである。

土壁の家屋 絨毯屋からの眺め 絨毯屋 建物の間のトンネル式通路

カスバの中を1時間以上も歩き回っていただろうか。カスバの外では、まだ日も落ちていなかったものの、ここでは薄暗いところもかなりあり、写真撮影はストロボを使わないと無理のような感じとなってきて、打ち上げとなる。帰りのタクシーを捕まえるところでも、モハメッドの知り合いがいて、親戚なのだという。「自分は各地に知り合いがいて、砂漠に行っても山に行っても、『モハメッド、モハメッド』と言われるんだ」とのことである。
ホテルに戻り、本日の分として、200DH渡す。明日は、アイト・ベン・ハッドゥで9時に約束した。残りは明日渡す。
これは美味い!
ムーニアでの夕食暗くなり、夕食に出た。市街のメインストリートを歩いたが、簡単に行き来できる距離だ。Mouniaというレストランに入る。ここの主人は、簡単な日本語ができる。ガイドブックによると、ここの名物はレモンチキンのタジンだというが、「今日はレモンチキンはない」と言われ、サラダとケフタと卵のタジン<右>、水の小ボトルを頼む。
先客がいて、この人がなにやらいうと、主人がござを持って行った。すると、客の一人はメッカの方を向いて、お祈りをしていた。サラダとタジンが運ばれる。サラダはモロッコ風ということで、角切りの野菜にドレッシングがかけてある。タジンは、油っぽかったが、熱々でとても美味しかった。最後にコーヒーを頼むと、マシンを使って出してくれた。もっとも、エスプレッソではなかったが。料金は59DHであった。ワルザザートまで来て、このような美味い食事にありつけるとは思いもしなかったのも事実であった。<Next→モハメッドのお導き

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