陽の沈む国へ〜Marrakech(1)

日本から、丸1日以上かかってのカサブランカ入り。飛び込みでホテルに入ったものの、休養同然。開けて翌日、鉄道でマラケシュ入りとなる。

2004/12/27(Mon:第3日)フェスティバル・シティ<カサブランカ 曇り マラケシュ 晴れ>

カサ・ヴォワヤジャー駅9:15-(ONCF)-12:40マラケシュ駅〜Hotel Central Palace(マラケシュ市内観光)
*マラケシュ旧市街が世界遺産に指定されています。
再び鉄道なのだ
イビスの朝食セットホテルには朝食<右>がついている。ホテルのレストランで提供されるが、パンの他にはハムとチーズがあったくらいで、あとは、ジュースとコーヒーまたは紅茶である。ハムとチーズを数切れ取り、赤いオレンジのジュースとコーヒーをカフェオレにする。カップのヨーグルトも取った。そんな内容なので、ごく簡単に終わってしまうが、ここでは自分で部屋番号をノートに記入するらしい。去りかけると、ウェイターが飛んでくる。
荷造りしてチェックアウト。何も使っていないので、請求は何もなし。マラケシュ(註1)に行く列車は、カサ・ヴォワヤジャー駅<下左>から発着する。窓口で2等(註2)のチケットを購入。75.5DHだったが、釣り銭がないらしく、100DH出すと、24DHしか戻ってこない。結局、76DH払ったことになる。ホーム<下左中>に行くと、かなりの人が列車を待っていた。マラケシュ行きは、この駅が始発ではないので、席が確保できるのかという不安もある。また、到着がやや遅れているようでもあった。(註1…Marrakech。旧市街が世界遺産に指定されている。フェズに次いで古い町である。)(註2…モロッコの鉄道では、1等と2等の区分がある。チケットは、レシートみたいなものだが、車内で検札が必ずあるので、取っておくこと。)

カサ・ヴォワヤジャー駅 カサ・ヴォワヤジャー駅のホーム 2等車のコンパートメント コンパートメントと通路の仕切

列車は10分ほど遅れて到着した。電気機関車に引かれたクリーム色に赤いラインの入った瀟洒な車体である。2等車に乗り込むと、8人用コンパートメントとなっていて、昨日の空港からの電車とはだいぶ雰囲気が違っていた。適当なコンパートメントに落ち着く。男性3人と女性2人という構成で、入口近くに座った。コンパートメント<上右中>と通路は、ガラスなのかアクリルなのか、透明のドアと壁<上右>で区切られている。8人用なので、ヨーロッパなどの鉄道のコンパートメントと比べると、室内は圧迫感があるし、通路はかなり狭い。コンパートメントの窓は、はめ殺しになっていて、夏などはエアコンが効くようである。シートはビニール製だが、クッションが効き、座り心地はよかった。
車窓風景そんな観察をしていると、列車(註3)が動く。途中までは、空港まで行く路線と同じであった。あまりスピードは出さないようだが、複線区間も多く、すべて電化されていたようだ。乗客は、みんな知り合いではなく、女性2人、男性2人、男性一人というグループ構成のようだった。隣の駅から、また一人男性が加わり、さらに息苦しくなった。そんな時は、通路に出て、沿線の写真<右>でも撮るに限る。モロッコといっても、このあたりは、緑が広がり、湿潤に見える。(註3…車両間の行き来はできる。洋式のトイレも備えられている。車内販売もあった。ほぼ各駅に止まるが、かなり快適であった。)
戻ると、乗客が全員でおしゃべりをしていた。女性2人は、途中で降りたが、男性陣は途中から乗ってきた一人を加えてますます、しゃべりが盛んである。荷物のタグを見て推測したのだが、どうやら、男性2人組はモロッコ人ではなく、どこかのアラブ諸国からの観光客なのか、出稼ぎ人なのかというところである。
マラケシュに到着し宿探し
マラケシュ駅マラケシュ駅<左>に到着。泊まるところは、やはりジャマ・エル・フナ広場(註4)近くの旧市街にしたい。駅は新市街にある。旧市街に行くには、タクシー(註5)かバスである。駅を出ると、早速タクシーの運転手が、声をかけてくる。それによると、40DHとのことだが、どう考えても高い。列車の料金の半分以上である。高いと応じると、いくらなのか希望額を言ってみろといわれたので、10DHと応じる。すると相手が離れていった。(註4…Place Djemaa el Fna。マラケシュ旧市街にある広場。意味は死者たちの広場で、かつては公開処刑場であった。現在は、無数の屋台と大道芸人が繰り広げるパフォーマンスで有名である。これらは、ユネスコの無形遺産にも認定されている。)(註5…モロッコのタクシーは、市内を流すPetit Taxiと郊外を走るGrand Taxiとに別れている。どちらも相乗りをさせる。グランタクシーの場合は、バス代わりの移動手段でもある。この場合はプチタクシーだが、白タクの可能性もある。マラケシュのプチタクシーには、もちろんメーターがついている。)
まったく、ここのタクシーはふっかけてくるやつばかりのようだ。ちなみに、マラケシュでは、プチ・タクシーにはきちんとメーターがあり、メーター料金で乗ることができる。が、この時はわからなかった。しょうがないので、駅正面の通りの反対側のバス停に行き、すぐ近くの青年にフナ広場までのバスのことを訊くと、きちんと英語の答えが返ってきた。路線の番号はいろいろあるが、いくつかのものがそこへ行くらしい。すると、3番のバスがやってきて、これに乗るよう指示される。料金は、3DHで持ち合わせがあった。運転手に直接払うので、よほどの高額紙幣でない限り、釣り銭ももらえるだろう。料金を渡すと、座席へのバーが開く仕組みであった。
フナ広場近くのバス停までは、10分程度。バスの車体は、淡いピンクで、なぜかスペインでよく見かけるバス会社、ALSA(註6)のマークがあった。道を右に折れると、旧市街の城壁が現れ、これに沿ってとある門から旧市街に入る。バスがフナ広場近くのバス停に到着。あたりをつけておいたホテルは、このバス停近くの、Hotel de Foucauldである。ちょうどバス停の反対側である。ここにしたかったのは、クレジットカードが使えるからである。ただし、入っていくと、トリプルの部屋しかないようなことを言われ、嫌がられた模様である。(註6…2003年夏の、「イベリア周遊3000km」参照。スペインをほぼ網羅している長距離バス会社である。)
マラケシュの宿
しょうがないので、他を当たる。この近辺には、宿が無数にあるはずだ。希望としては、安くても、ホットシャワーが出るところで、それが部屋に付いていることであった。しばらく歩き、Hotel Central Palaceに行き当たる。泊まりたい旨を告げると、部屋を見せてもらえた。「部屋は二階(註7)だと言われ、上がっていくと、ハウスキーピングの女性が部屋を開けて待っていた。中を確認する。がらんとした部屋に、ダブルベッド<下左>くらいしかないが、洗面台<下左中>シャワールーム<下右中>があった。トイレらしいものも付いている。ここに決定。1泊150DHを先払いし、2泊以上する予定であった。(註7…モロッコでも、階数の数え方は、ヨーロッパ式である。なので、フロントから2つ階を上がったところとなる。以降同様。)

ダブルベッド 洗面台 ビデとシャワー 雰囲気のある中庭

部屋で荷物を取り出し並べる。部屋は、中庭<上右>(註8)を囲んで、ロの字型に部屋が並ぶ。部屋は、日本風に言うと、3階まであり、その上は屋上になっていて、ここにも出ることができるようだった。再び、部屋をチェックすると、トイレのように見えたのは、実はビデであった。その手前にシャワーを浴びる一段低くなったところがあり、排水溝が設けてあった。トイレは、共同なのであった。トイレに行ってみると、ここにもシャワーが付いていた。シャワーなしの部屋もあり、こちらは100DHのはずだった。共同のシャワーは、イギリスのB&B(註9)のように、広々としたものではなく、靴のままここに入り、着脱などもするので、濡れた床に靴の跡などが付いている。シャワーは部屋で浴びることができるにせよ、トイレがやや面倒かも知れない。(註8…Patio。スペインに多く、メキシコでもかなり多く見かけたことから、スペイン風の文化なのかと思っていたが、アラブがスペインに持ち込んだものだったのだ。従って、モロッコの宿でも中庭がある場合が多い。)(註9…Bed and Breakfast。朝食付きの宿で、トイレと風呂は共同。もともとは民宿的であるのだが、ホテルと名乗るところも多い。)
屋上に出てみる。ここには、テレビのある部屋があり、室外にはテーブルなども置かれていた。物干し場にもなっているようで、シーツやタオル類が干されていた。さらにもう一段高くなったところがあり、ここに登っていくと、他の宿泊客なのだろう、欧米系のカップルがくつろいでいた。ここからは、フナ広場の一部も見え、反対側には雪を被った、アトラス(註10)の山並みも眺めることができた。(註10…Atlas。マラケシュから望めるのは、オート・アトラス<Haut Atlas、高いの意味>山脈。オート・アトラスを中心として、北部には、モワイヤン・アトラス<Moyen Atlas、中間の意味>、南部にはアンチ・アトラス<Anti Atlas、前触れの意味>がある。最高峰はオート・アトラスにある、ツルブカレ山の4167m。)
フナ広場、クトゥビアの塔
ようやく宿を出て、観光に向かう。まずはジャマ・エル・フナ広場<下左>に向かう。ここはかつての公開処刑場であったが、現在は蛇遣い、猿回しなどの大道芸人が多くいたり、食品の屋台が並ぶことで有名である。この時間は、わずかな大道芸人がいたくらいで、屋台群は夕方からということなので、あまり活気がないようだった。ここはあとでまた来ることにする。とはいえ、フナ広場は、近くにレストランやカフェ、銀行などもあるのでかなり便利な場所といえよう。

ジャマ・エル・フナ広場、開業前 クチ乗り場あたりから見たクトゥビア 高さ65m 手前には墓地のようなものがある

ここからクトゥビアの塔<上左中、上右中、上右>(註11)に向かう。この塔は、高さ65m。マラケシュのシンボルともいえるものである。ここはひときわ高いので、宿の屋上からも見えるし、もちろんフナ広場からは全容が見えた。早速、馬車(註12)の御者からも声がかかる。クトゥビアに行くには、信号のない道路を横断する必要がある。交通の切れ目を縫って、渡る。(註11…Koutoubia。マラケシュのシンボルともいえる。)(註12…クチ。マラケシュあたりでは、観光用の馬車となるが、地方に行くと、立派な交通手段となっているところもある。)
クトゥビアは、スペイン・セビーリャのヒラルダの塔(註13)に次ぐ高さを持つミナレットである。だが、現在モスク部分はなく、この塔だけが残っている。以前は登ることができたそうだが、それもできないので眺めるだけである。いろいろと角度を変えてこれを眺める。それにしても、マラケシュでは以前は観光客を見ると、自称ガイドが立て続けに現れるとのことだったが、まったくといっていいほど声がかからない。どうやら警察の取り締まりが厳しくなったからのようである。(註13…Giralda。セビーリャのカテドラルにある塔。セビーリャのカテドラルは、コロンブスも葬られているようなところだが、もともとはモスクとして建てられたものである。レコンキスタ以後カテドラルとして転用された。ヒラルダの塔はミナレットだったのである。)
サアード朝の墳墓群へリベンジ
次に向かうのは、サアード朝の墳墓群である。クトゥビアからは距離があるが、やはり徒歩で行くことにする。が、ガイドブックを見ていたにもかかわらず、道を間違え、城外<下左、下左中>に出てしまった。壁に沿って歩くが、大幅に迂回したことになる。ホブ門<下右中>を入って再び旧市街へ。墳墓群に入っていくには、ホブ門の内側にあるアグノウ門<下右>(註14)という、美しい門を通っていくことになる。だが、ここもかつては処刑された罪人の首がさらされたところでもあったらしい。そのアグノウ門には、大型の観光バスが横付けされ、ヨーロッパ系らしいツアー客がここから徒歩で墳墓群に向かっているようだった。その一団と紛れてしまう形になる。(註14…Bab Agnaou。)

旧市街の城壁 整然とした並木道 この中旧市街 美しいアグノウ門

入場料は、10DHだった。ここは、サアード朝の代々のスルタンが葬られているところである。かつては、モスクの方から、入る入口があったのだが、その後アラウィー朝のムーレイ・イスマイルが入口を塞いでしまい、1917年に、上空からこの存在が見つけられるまで、隠されていた場所でもあったのだ。そのため、入口<下左>は特に狭くなっている。個人的には、11年前のモロッコツアーでも、立ち寄った場所でもあるのだが、この時にはバスにカメラを置いてきてしまい、非常に悔しい思いをした経験がある。そのためのリベンジでもあるのだ。

とても狭い入口 廟の中の墓 廟に入らない墓 廟の入口の透かし彫り

だが、中は非常に混み合っていた。すべてが個人客だとは思えず、ほとんどがツアー客なのだろう。以前はツアーというと、日本人専門のような感じがしたものだが、自分がこのところ感じるのは、ドイツ・フランス・イタリアあたりの中高年夫婦を中心にした団体が、世界遺産を中心としたあたりにかなりの確率で出没するということである。一方、日本人のツアーは、都市を中心としたあたりに流れているのではなかろうか。事実、この旅でも日本人のツアーには、カサブランカあたりでしか遭遇していないのである。廟に入った墓<上左中>は、スルタンのものであろう。一方、廟には入らず地面に墓石<上右中>の残るものもあった。廟の内部は細密な模様の描かれたタイルが壁面を覆っている。また、廟の入口にも、透かし彫り<上右>の細密な模様があった。混み合う廟群には困ったものだった。列のできているところもあり、カメラのレンズ交換などをして同じものを撮り直し、空くのを待ったが無駄であった。ここを出て、次に向かう。が、道に迷ってしまったのか、たどり着かなかった。
再びフナ広場とネットカフェ、夕食
目指していたのは、王宮とバイア宮殿(註15)であった。ここは翌日に回すことにする。とりあえず、ジャマ・エル・フナ広場に行く。フナ広場を見下ろすカフェ(註16)にも入ってみたが、広場側はほとんど客で埋め尽くされてしまっていて、これは諦める。そろそろ屋台の準備もできている頃であったが、営業はこれからといったところである。適当なジュース屋台<下左>に行き、オレンジジュース<下右>を1杯注文する。このジュース屋台だけは、昼間から営業を続けているのだ。これからミキサーで絞るのかと思ったら、すでに用意してあったボトルから、注がれた。2.5DH。味はよい。屋台の主人は、屋台の番号(註17)を指さして、「明日も来い」といった。ここには、このような屋台もたくさんあるが、オレンジは並木にもなっているようなところなので、原料には困らないのだろう。(註15…Palais de la Bahia。)(註16…たくさんあるので、現地にて確認のこと。夕刻からは座席の争奪戦となるであろう。他の店よりもかなり高額な価格設定のはずだ。)(註17…屋台には番号が割り振られている。これを覚えておけば、次にも同じところに行けるというものである。)

ジュース屋台 屋台のオレンジジュース

宿は寒いので、こちらでは「サイバー・カフェ」と呼ばれている、ネットカフェに行く。与えられたパソコンは、かなり回線が遅かったが、いくつかの書き込みをしたり、日本でのニュースを見たりした。この時には、津波(註18)の出来事も起こっていたようだ。1時間ほど滞在して、8DHであった。(註18…スマトラ島沖地震による津波。)
いったん、宿に戻ったが、日の暮れるのを待って、夕食に出る。カメラに大口径の明るいレンズをつけて、その帰りに、フナ広場の喧噪を撮るつもりだった。宿から道を1本隔てた通りにある、El Bahja,Che Ahmedというどちらかというと地元の人向けの店に入る。まだ客はほとんどいなかった。

パン、オリーブの実、サラダ 前の日よりも一回り大きい

メニューはここもフランス語のみのような感じだったが、注文を取りに来たおじさんは簡単な英語ができた。昨日チキンのタジンを食べたので、トルコではケバブ、こちらではブロシェット(註19)と呼ばれる、串に刺して焼いた肉が食べたかったのだが、これはないという。しょうがないが、昨日とほとんど同じ内容、サラダ<上左>鶏肉のタジン<上右>、水の小ボトルというものだ。やはりアルコールはない。また、ここはパンも有料だった。それに加え、オリーブの実を頼む。タジンが来るまで、オリーブで腹ごなしである。パンはモロッコの丸い平べったいパンである。これは比較的美味しいパンだ。(註19…Les Brochettes。)
タジンは、カサブランカのものよりも一回り大きな鍋だった。蓋を取ると、黄色く染まったジャガイモが目に付いた。これはサフランで色づけしてあるようだ。また、ニンジンも目に付く。鶏肉はその下に隠れていた。ここでも鶏の足がひとつ。カサブランカのものよりは、大きい。食べてみると、カサブランカのタジンとはまた違ったスパイスが使われているようで、同じチキン・タジンでも別のものを食べているような感じであった。比較的薄味といったところか。
次第に客が入ってきた。前のテーブルに、東洋系の顔が現れたが、これは中国人のようだった。地元客を見ていると、パンとオリーブだけという人もいた。料金は、パンが1DH、オリーブが3DH、サラダが6DH、タジンが25DH、水が5DHというもので、全部で40DHであった。

ジュース屋台 食べ物の屋台 フナの夜 そぞろ歩く人たち

フナ広場で、屋台や夜景<上左、上左中、上右中、上右>などを撮っていたが、確実に嫌がられる仕草をしていた店員もいた。また明日来てみよう。場合によってはここで夕食にしてもいい。宿に戻る。部屋には暖房がないので、とても寒い。そのうちシャワーを浴びようと思って、ベッドで横になっていたら、眠り込んでいた。夜中に一度起きたが、そのままシーツの間に潜り込み、シャワーは翌朝に回すことにする。よほど疲れていたのかも知れない。<Next→マラケシュをさまよう

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