長江は今日も雨だった〜武漢・上海

武漢の朝

3泊4日の長江クルージングを終え、揺れないベッドで休む。この日が実質最終日。武漢観光ののちに、上海へと。

1993/08/16(月曜日:第10日)上海の夜は更けて<武漢 曇り 上海 曇り>

武漢市内観光〜武漢空港12:40-(CZ3579)-13:45上海虹橋空港(国内線)〜上海(上海観光)〜上海海倫賓館
朝から元気な武漢市民
まだ身体が揺れている。部屋からは、長江と長江大橋<下左>が見えるが、朝方ということだけでなく、薄暗い。どうも長江流域は、晴れることが少ない。なんといっても、晴れたのは、白帝城と岳陽だけなのだ。しかし、ツアーは濃厚で、朝食前に、武漢の街を散歩して、庶民の朝の生活を見てもらいたいらしい。

武漢長江大橋 食材を刻むおばさん 餅のようなものを作っていた 食券のカウンター

少し歩いたあたりは、朝食の店が並んでいた。ほとんどが半分開放式のような作りで、店頭では食材を刻むおばさん<上左中>がいたり、仕込み<上右中>の最中であったりした。そのようなところも、食券方式(註1)らしく、専用のカウンター<上右>なども置かれていた。また、このあたりは屋台もあり、深夜営業を行っていたらしく、店を片づけそれをまとめた上で眠っているような人もいたほどである。(註1…一般人民が外食するような店で取られていた。かなり安いものの、人民元しか受け付けず、たとえ外国人が人民元を手にこれに挑もうとしてもここで言葉の壁にぶち当たるというもの。)
黄鶴楼

長江大橋と長江 孫文の銅像 黄鶴楼 石碑の部屋

さて、最後の観光は武昌地区にある、黄鶴楼の見学である。まずは眺めるだけだった長江大橋<上左>を渡る。この近くには、辛亥革命記念館などもあり、孫文の銅像<上左中>もあったりする。孫文(註2)は、共産党からも国民党からも、慕われていて、今でも多くの記念碑や、名前を取った橋や道路などがある。黄鶴楼<上右中>は、高さ51mで、現在のものは、再建され場所も移されたものである。やはりというか、石碑<上右>の並ぶところを通っていく。入口前には、名前の由来となった鶴のレリーフ<下左>がある。黄鶴楼の中にはエレベーターがあり、やや趣にかけるが、眺めはよい。しかし、そのような眺めのよい場所では、中国人民が写真撮影(註3)に興じていて、なかなかこちらの順番が回ってこないのが常である。ずいぶんと待って、Oさんと記念撮影<下左中>するが、ほとんど逆光だった。(註2…字は中山。辛亥革命を起こした政治家・革命家。中国革命の父という位置づけで、中国共産党−大陸、中国国民党−台湾双方から敬われている。)(註3…とにかく、大陸の中国人は写真に写ることが好きであり、1回のシャッターに対して、モデルのようなポーズを取ったりしてかなりの時間をかける。観光地ではこれがかなりうざかったりする。)

鶴のレリーフ Oさんとの記念撮影 黄鶴楼脇を鉄道が走る 籠に乗るSさん

黄鶴楼脇には鉄道<上右中>が通っていた。これを降りると、なんだかよくわからないが、龍を形取ったものを大勢の若者<上右、下左>が担ぎうねり歩いている。この中に籠があり、女性最高齢者と思われるSさん(註4)が乗り込んでいた。さて、観光も終わり、あとは空港に向かうだけ。しかし、メンバーが足りない。K歯科医がビデオ撮影に夢中になり、迷子になってしまったようだ。李さん、あわてて探し回るが、すぐに戻ってきたようだ。その間に路上で店を開く物売り<下右>を撮影。(註4…このツアーは、参加者が何らかのコネクションを通じて集まったものだが、主だったメンバーは、前年のチベットから引き続きというケースが多いのだが、この人は鳴沢さんの別のツアーからやって来たケースであり、かつ単独参加であった。途中、ツアーのコストパフォーマンスなどでややトラブルめいたこともあった。この日は前日、誕生日を祝ってもらったため、気分がよかったようである。筆者にとっても、次の旅となる、1993年末1994年始のモロッコの帰り、空港でばったり遭遇してしまったという曰く付きであった。)

うねり歩く赤い服の集団 路上の物売り

上海へ
武漢の空港<下左>へ。まだ、11時前だというのに、空港レストランで昼食となる。ここでは久しぶりにカエルが出る。あとは、売店で時間を潰し、搭乗を待つのみ。久しぶりの航空機でもある。搭乗機まではバスが出る。武漢といえども、地方空港の感は免れていない。

武漢空港 すっきりとしたカラーリングの機体 中国南方航空のアテンダント

中国民航(註5)の分割化によって、新しく生まれた中国南方航空<上中>は初めてである。機体もボーイング737と、ソ連製でないのがよい。そして、空中小姐<上右>のユニフォームもストライプが入ってなかなか洒落ているではないか。簡単なランチボックスが出たが、中身はビスケットなどの菓子類であった。1時間ほどで上海に到着。(註5…1998年に民営分割化され、その後は20あまりの会社が乱立したが、2002年に再度編成されなおし、現在では、中国国際航空<CA>、中国東方航空<MU>、中国南方航空<CZ>に再編された。ちなみに、筆者は、中国西北航空<WH>、中国西南航空<SZ>、中国南方航空、中国雲南航空<3Q>、中国新彊航空<XO>に乗ったことがある。)
下町をぶらつく
ここで待っていたのは、初日のガイド曹さんである。時間があるので観光となるが、多数決でまたも豫園に行くこととなる。まあ、昨年とメンバーが違うので、そういうこともあるか。豫園<下左>では、場所と時間を決めて自由行動。豫園見学組は曹さんとともに行動。こちらは、あてもなくぶらぶら。懐かしのガチャポン<下左中>があったり、低層の住宅<下右中>がある様はまさに下町である。再集合後は、包子(註6)の店で、庶民の味を堪能である。なんでもこの店は新宿にもあるとのこと。やがてバスに戻ろうとすると、交通安全のおばさん<下右>が近寄ってくる。我々が何かしたのだろうか。ここで機転を利かせたUさんは、K歯科医のビデオカメラを覗かせて、難なくやり過ごしてしまった。(註6…パオズ。小麦粉で練り上げて作った皮に、餡を包んで蒸し上げたもの。小龍包などが有名である。ちなみに、朝食で出てくる饅頭<マントウ>には、餡が入っていない。餡は、主に肉である。ちなみに、この店は、新宿にあった、南翔小龍包店であったが、現在はなくなった模様。)

豫園湖心亭 硬貨を入れて回すと何が出てくるか 低層の住宅 ビデオを覗くおばさん

その後は、友誼商店(註7)で買い物。そのまま上海大厦(註8)の最上階で夕食である。ここは眺めがよく、かつてのガーデンブリッジ<下左>が見えた。お笑いだったのが、掛け軸を売りつけようと押し掛けた二人組の日本語遣い。おかしな日本語を操る奴らで、最初は売りつけようと躍起になっていたが、誰も買わないとわかると、こちらのからかいに笑いながら受け答えしていた。(註7…友誼とはFriendshipという意味。旧ソ連におけるベリョースカのようなもので、外国人が兌換券で買い物ができる店である。上海の友誼商店はかなりの規模であり、百貨店のような感じでもある。一応、外国人専用だが、兌換券を持った中国人も出入りしている。一応、公務員が働いていて、まったくやる気のない態度をあからさまに見せる者もいた。)(註8…大厦というのは、マンション風アパートメントのことである。ここは、戦前からあるブロードウェイ・マンションであったが、現在はホテルとなっている。)
上海の夜は更けて

外難にかかるガーデンブリッジ 夜の上海ストリート ソフィテルの部屋

この後は、上海雑伎団(註9)のオプショナルツアーがあったが、以前に見ているので申し込んではいなかった。Hさんとタクシーで海倫賓館へ。女性ドライバーで、鉄格子が運転席を囲む。上海の夜はいつの間にかこんなに明るくなったのであろうか。ノーフラッシュで外を撮影したが、電飾満願<上中>という雰囲気であった。他のメンバーよりも一足早くチェックインしたが、目的はカラオケにあった。ここでもあるとのことで、二人で先乗りする。雑伎団帰りのメンバーは大半が疲れていたようだが、Uさんはじめ、数名がつきあってくれた。歌い邦題で70元らしいが、けっこう地元の奴らも来ている。ある程度所得の高い人であろう。2時過ぎまで頑張ったが、ドアのダブルロックが判明して、フロントに戻り、鍵を開けてもらう。結局眠ったのは、3時過ぎであった。部屋<上右>は今までで最高級。さすがにソフィテル系である。とはいえ、ほとんど堪能しなかったが。(註9…中国でもっとも有名なサーカス団。かつては専用のテントを持っていたが、その改築工事のため、この時は劇場で公演されたらしい。唯一、芸をするパンだがいたが、劇場ではこれが出なかったらしい。)Next→いよいよ帰国

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