長江クルージング1日目、観光としてはいまいちな地獄巡りを体験したが、初めての船旅ということに、気分は高揚していた。その2日目、いきなり予定変更であった。
長江クルージング第2日 万県沖-(長江公主号)-奏節(白帝城観光)-瞿塘峡、巫峡通過(長江公主号)-[禾弟]帰沖停泊〜長江公主号
予定変更
長江の観光船は適当に時間を調節しながら、夜に見所を過ぎないようにしている。この日は、万県というところに停泊していた模様。予定では、瞿塘狭通過後に、小舟に乗り換え小三峡(註1)を遡るはずであったが、水量がありすぎるために、小三峡には行くことができず、白帝城観光となる。これをすませた後に、瞿塘峡、巫峡、西稜峡と続くのであるが。(註1…瞿塘峡からの支流を小舟でさかのぼる。船はところにより、漕ぎ手が陸に上がり、ロープで引っ張るという秘境中の秘境。この時は残念ながら、実現できなかったが、一昔以上前の絵はがきなどによると、その漕ぎ手はふんどし一丁もしくは、全裸で引っ張っていたらしい。そのようなものも船内で販売されていた。)
そんな話を朝食のお粥を食べながら説明され、上陸を待つ。この奉節<上左>という町では、長江公主号のような大きな船が接岸できる設備がなく、小さな連絡船に乗り換えるのだ。白帝城に行くのは長江公主号だけではないらしく、近くにやはり大型船<上左中>が停泊していた。こちらは中国人ばかりの模様であった。奉節沖合に着いたのは、8:35くらいであったが、位置を決めるのに、ぐるぐる回っていて、連絡船が来たのが、9:20頃。接岸部<上右中>で待っていたが、こちらはすぐに一杯になってしまい、我々は次の連絡船<上右、下左>に。奉節の土を踏んだのは、10:35という有様である。
白帝城
白帝城(註2)は、蜀漢の劉備(註3)が亡くなったところである。たくさんの人が上陸<上左中>したので、それだけで時間がかかってしまう。しばらくの間は、平坦な街並みで、のどかにも、片側がオープンしている小学校の教室<上右中>があった。折しも、音楽の授業が行われているところであった。このあとは、本格的に山道となり、ひいひい言いながら上っていく。上り詰めたところで、冷たいミネラルウォーターを売っていて、ちょうど小銭の持ち合わせがなかったので、Hさんに借りてごくごくと喉を潤す。それほど暑い。ただし、かなり眺めがよく、これから下っていく瞿塘峡が見えている。ここで記念撮影<上右>。(註2…前漢の末期蜀の王と称した公孫述が住んでいた城であるが、蜀漢の劉備が大敗を喫した後にここで臨終を遂げた地でもある。)(註3…漢の末裔と称し、三国時代の蜀を建国した人物。軍師に諸葛亮がいる。三国志演義によって日本での人気も高い。)
白帝城に入っていく。入口の門<下左>には、「白帝廟」の文字がかかる。ここをくぐっていくと、東屋があり、ここで簡単な説明を受けた。ここは、劉備の亡くなったところであるが、どうやら中国では諸葛孔明<下左中>(註4)の方が人気が高く、劉備<下右中>よりも孔明の像の方が目立つような気がする。建物の中では、劉備の「後を孔明に託す」場面を人形を使ったセット<下右>などで説明してあったりする。(註4…蜀の軍師、宰相。劉備が臨終に際して、息子の後を託したのであるが、その息子がいまいちな人物であった場合は、孔明が代わって帝位につくよういわれていたという。これまた、三国志演義で日本での人気も高い。中国では圧倒的に、孔明の方が人気が高い。)
ここの観光中に、ちょっとしたトラブル(註5)があった。とある箇所で説明を受けているとき、別ツアーの一段がどうしても拓本が欲しかった模様で、我がガイドの李さんに詰め寄ったのである。もちろん、彼らのガイドは別にいるのだが、それを案内しない李さんが不親切だということである。これはまったくのお門違いで、李さんはかなりむっときていたようである。聞くとこの一団は、教員の集団らしい。わざわざ白帝城まで来て、拓本を持ち帰らないのは、悔しいらしいのだが、それは自分たちのガイドに言ってくれ。帰り道は別ルートで。ここでも籠<下左>が大活躍であった。下の露店街<下左中>は中国の他の都市では見られないような鄙びた感じだ。(註5…ここで、拓本が販売されていた。我々にはサービスで拓本ではなかったものの、拓本を写真にしたものをパウチされたカードが配られていた。我々とは別の日本人ツアーがなぜか我々のガイド李さんに拓本を売れと詰め寄った次第。)
ようやくのことで、連絡船に戻る。せっかくなので、船上で記念撮影<上右中>する。長江公主号<上右>に戻って昼食なのだが、Hさんに誘われ、5階で冷たいビール。さすがに誰もいなくて、気分良く乾杯できた。昼食でもビールは付くが、もちろんぬるい。
三峡下り・瞿塘峡
この後にいよいよ瞿塘峡<上左、上左中>に突入。客はデッキに出て、舳先を奪い合いである。まあ、あまり一般中国人民が乗っていないので、それほど熾烈な争いにはならないのだが。さすがにこのルートで一番狭いところを通るだけあり、迫力満点。何しろ縦揺れが激しく、波しぶきがかかってくるくらいである。このあたりには、蜀の桟道<上右中>というものがある。周囲はとても高い山ばかりで、まともなルートがなく、瞿塘峡に沿って切り立った崖の中の人が通れる部分を繋いだ古道である。また風箱峡<上右>というものがあり、これは、切り立った崖の一部がふいごに見えることから命名されたものである。瞿塘峡の左右は切り立ったような断崖なのだが、見上げると左右に山<下左、下左中、下右中>が迫る。空が極端に少ないといってもいいくらいであった。瞿塘狭はすぐに終わってしまい、四川省を抜け、湖北省に入る。ここでようやく向かいの船<下右>とすれ違う。
死体も流れる巫峡下り
後ろのデッキに移り、巫峡<上左>に突入。流れは相変わらず、迫力満点。と…何かが流されてくる。豚の死骸<上左中>であった。この巫峡も左右に高い山<上右中>(註6)が続く。山の高さは瞿塘峡よりもさらに高くなる。巫峡はやや川幅が広くなり、後部デッキで記念撮影<上右>などをしていると、やはり何かが流されてきた。なんと、人間の亡骸<下左>(註7)である。おそらく雨に流された人民なのだろうが、K歯科医などは「中国人はなんであれ引き揚げないのかね。日本じゃ考えられないね」と持論を展開する始末。しかし、この長江の威力を前にしては、無理なんじゃないだろうか。ちなみに、この人、丸坊主の山を見ては、「樹はどうしてしまったのだろう、薪にでもしたの」と李さんに詰め寄ること数回。しかし、夜は夜でバーのなぜかジンを呷って、酔っぱらうほど。数年前に動脈破裂で倒れたとは信じられん。またぶっ倒れなければいいのだが。(註6…このあたりの山は、神農渓と呼ばれ、一時期話題となった、野人が生息している場所なのだそうだ。)(註7…もちろん、このとき初めてしたいが流れてくるのを目撃したのだが、その後インドのヴァラナシーなどでもたくさん見てしまった。それにしてもさすがに中国、人口も半端ではなく、行方不明者がでていても、どうしようもないようである。ここでの流れでは死体の回収はとても不可能と思われる。)
二つの峡谷が終わり、船は[禾弟]帰(シキ)<上左中、上右中>沖に停泊。街はすぐそこなのだが、上陸予定はないようだ。夕食も船内のレストランですませ、長い夜となる。何せ、テレビが映らなくなっていたのだ。やることがなくなり、5階で酒などを飲む。ツアーメンバーは、カラオケ<上右>に興じていたようだが、もちろんここには最新の楽曲は置いていない。<Next→船のエレベーターとチョウザメ>