アジアとヨーロッパの間で・冬のトルコ〜アンカラ編

アタチュルク廟の衛兵、寒いので詰め所に入っている

サフランボルはあまりにも寒い。これから行ってみたいところは、コンヤという中世のイスラムが色濃く残るところなのだが、バスの移動が辛そうなので、途中のアンカラに立ち寄ることにした。

2002/12/30(Mon:第5日)首都アンカラ<サフランボル 曇り アンカラ 曇り>

サフランボル10:00-(metro otobus)-13:00アンカラA.S.T.I.〜Tourist Hotel

目覚めると部屋の電気ストーブが切れていた。簡単なセンサーが内蔵されているようで、熱くなりすぎると切れてしまうようである。朝食を食べてチェックアウト。民家を改造したホテルというよりは、民宿に近いものなので、クレジットカードは使えず、30USドル現金払い(註1)。宿の主人は、次にどこに行くのかと訊いてきた。アンカラだというと、新市街までは、ミニバスで行けと教えてくれる。(註1…トルコリラのあまりにも信頼のなさに、観光業者では、ドル建てあるいはユーロ建ての支払いも一般的である。ホテルなどでは、フロントにトルコリラの値段表記がなかったりする。ただし、クレジット払いにしたときは、トルコリラで請求されるはずだ。)

はじめは荷物もあるしタクシーでも使うかと思っていたが、バスが待機していたので、乗り込む。昨日のバスとは路線が違い、バスターミナルには着かなかったが、クランキョイも小さな町なので、迷わずにMetroの事務所に到着。バスはやはりこの前から出る。バス<下左>は、三菱製のものだった。乗り込むと、ベンツのバスよりは座面が低く(註2)、あまり疲れないようだった。バスには、やはり女性の係が乗っていて、この会社はこれが売りのようだ。カラビュックに止まり、南を目指す。途中から高速に入ったが、ここから雪景色となる。その途中でトイレ休憩<下左中>があった。(註2…ヨーロッパ仕様のバスは、床から座面が高く、たとえ足が床についていたとしても、とても圧迫されて血行が悪くなる。日本製は、座面が低いのでこれがない。ちなみに、トルコ人の体格だが、中高年以上は日本人と同じくらい。最近は栄養状態がよくなったらしく、大きいやつが増えている。)

三菱プレンセスというバス 雪景色のサービスエリア アシュティの中 アンカライの自動改札 新交通システムのチケット

アンカラ市域に入ったと思われたが、なかなかオトガルには着かない。やはり市の面積が半端じゃないということか。アンカラのオトガルは、A.S.T.I.(Sは下の部分に髭がつく)。アシュティ<上中>と呼ばれている。三階建てのもので、一昔前の成田空港のような外観である。ここから吐き出され、とりあえずアンカラ市内に向かわなくてはならない。市内へは、アンカライという、新交通システムがここから直結している。これをクズライというところでメトロに乗り換え、ウルスというところに、ホテルが集まっているようだ。アンカライもメトロも新交通システムだが、イスタンブルの旧市街のメトロが数駅だけの地下鉄なのに対して、こちらはほとんどが地下を通る。料金は均一で、1回80万TL。チケットを購入して、イスタンブルと同じように自動改札<上右中>に差し込んで通る。しかし、こちらはチケット<上右>が戻ってくる。乗り換えのクズライでも、改札はなく、そのまま行ってよい。アシュティは始発駅なので、もちろん座ることができたが、ちょうど昼の時間にさしかかっていたのか、途中からかなりの混雑となってしまう。それでも乗り換え、何とかウルスに到着。

メトロ<下左>から地上に出ると、雨上がりなのか、アスファルトが濡れている。ただ濡れているのならばいいのだが、土埃混じりで、かなり靴が汚れそうだ。そんな中を荷物を持って歩き、ホテル街へ。駅からはだいぶ距離があるので、アシュティからはドルムシュの方がいいかも知れない。やがてアタチュルクの銅像<下左中>が見えてきた。アンカラは、何回目か、宿泊は一度しかないが、アタチュルク廟と考古学博物館は二回ずつ見ている。

新交通システムの車両 アタチュルクの銅像 部屋 眼下にローマ遺跡、遙か遠くアンカラの山並み シミット

もう少しでローマ浴場跡になろうとするところに、Tourist Hotelがあった。1泊希望で、4000万TL。クレジットカード払いの前金である。いささか古びているが、問題はない。部屋<上中>はシングルユースということだが、ベッドはダブルである。窓の外<上右中>からは、ローマ遺跡が見える。それにしてもそろそろ14:00になろうとする時間で、その前にアタチュルク廟に行ってみることにする。荷物を放り投げて、来た道を再び駅に急ぐ。途中の屋台で、胡麻つきリングのパン、シミット<上右>(註3)を購入。たったの20万TLで小腹は膨れる。(註3…菓子パンのような部類にはいるのか。トルコのパンというとエキメッキなのだが、街角では、シミットを盆の上に載せてこれを頭の上にさらに載せる売り子が見られる。こちらがトルコのパンというイメージが強いのではなかろうか。非常に安く、腹持ちがする。ただし、小腹ふさぎのような役回りで、決して食卓には登場しない。冷めていても美味しいが、夕方にさしかかると、次第にディスカウント価格となるのもご愛敬。)

メトロとアンカライを乗り継ぎ、タンドゥアンで降りる。アタチュルクの廟がある方面には少し迷いかけたが、何となく向かっていた。町にはそれなりの表示があるので、わかりやすい。トルコはトルコ式ではあるが、ローマ字表記なので日本人にもわかりやすいのである。廟の入り口にはゲートがあり、ここで荷物チェック(註4)を行っている。詰めているのは兵士だが、ここではまるで英語は通用しない。だが、言っていることはわかる。要するに、貴重品を抜いて、すべての荷物をここで預けるということらしい。荷札をもらうが、予備のフィルムを預けてしまった。フィルムがなくなったら、デジカメで撮ることにしよう。(註4…ツアーバスなども訪れるが、この場合は、荷物チェックはない。ただし、バスの中に、荷物を置いていくようにといわれる。)

廟までの道 衛兵の行進 こちらは交代を終えて詰め所に戻るところ アタチュルク廟 アタチュルクが使用した自動車、これだけではない

このゲートから入り口までは、徒歩で10分くらいかかる。その入り口からは、衛兵(註5)の交代式の行進が1時間ごとに行われている。内部はかなり広いので、ここを訪ねるる人はだいたい見ることができるのではないだろうか。ようやく、入口に達する。両側には、ライオンなどの像も並び、まるで参道<上左>のような雰囲気だ。廟のある一角に入っていくと、ちょうど衛兵たち<上左中、上中>がアタチュルクの廟から降りてくるところだった。アタチュルク廟<上右中>は大理石作りで、一見神殿風。警備の衛兵は、ここにふたりと、回廊の反対側の入口にふたりいる。そんなところでちょうどフィルムが切れ、デジカメに切り替える。広場を囲むように作られている回廊のようなものの隅には、アタチュルクが使用した自動車<上右>などが展示してあるのがわかった。ツアーではわからないことである。また、アタチュルクの所蔵品などの展示室もあった。付属の博物館は残念ながら閉鎖中だったが。また、アタチュルク廟と正対する反対側には、アタチュルクの跡を継いだ第二代大統領、イスメット・イノニュの墓<下左>もある。(註5…警備しているのは陸、海、空の三軍から成るらしい。それぞれ制服の色が違う。以前は民兵が行っていたらしいのだが。ちなみに、90年に初めて訪れたときには、だらだらしていてあまり迫力に満ちた感じではなかった。トルコで他に衛兵のいるところは、イスタンブルのドルマバフチェ宮殿。アタチュルクの亡くなったところである。)

イノニュの墓 期待したイシュケンベであったが… ムサカ チキンのトマトソース煮込み 挽き割り小麦のピラウ

戻ることにする。ゲートまでの道は下り坂で、夕日を浴びた山が奇麗に映えていた。再びアンカライとメトロを乗り継ぎ、ホテルへ戻る。いったん休んだあと、夕食はホテル前の通りを渡ったところにあるロカンタで済ませる。ちょうどイシュケンベ・チョルバスの表示があったので、訊くとできるという。そのイシュケンベ・チョルバス<上左中>を選んだあとは、ガラスケースに入ったおかずをどれにするというものだった。きちんと制服を着たウェイターもいる店で、メニューもあったのだが。それで、なすの煮込み、ムサカ<上中>(ギリシアでもないが同じ呼び名)とチキンのトマトソース煮込み<上右中>挽き割り小麦のピラウ<上右>をもらう。酒はなく、コーラ。イシュケンベ・チョルバスは、見た目は濃厚な感じだが、レモンが添えてあり、これを搾って入れる。が、あまり味がしない。確かに胃袋が細かく刻み込まれて入っているのだが。店の感じに比べてあまり美味しくはなかった。お勘定は1000万TL

ホテルに戻って、トルコ語での電話が二度かかる。よくわからないが、あとになって考えてみると、「夜のお誘い」だったのかも知れない。このホテルには、車椅子のスポーツ選手団とトルコのナショナルジャージを着た何かの選手団が宿泊しているのだが、そちらの間違いなのかと思ったほどだったが。


2002/12/31(Tue:第6日)コンヤへ

アンカラ市内観光〜アンカラA.S.T.I.13:00-(ozkaymak otobus)-16:15コンヤ・オトガル〜Hotel Ani

朝起きると断水していた。窓から外を眺めると、ローマ浴場<下左>はもちろんだが、アンカラを囲んでいる山が見事に澄んで見える。妙な電話のあったホテルだが、この部屋の展望は最高だ。ロビー横のレストランで朝食<下右>を取り、戻ってみると、水道管が音を立て始め、断水が治る。フロントで確かめたところ、チェックアウトは、午後1時だというので、午前中を近くの観光に当てる。

ローマ浴場とアンカラの山並み 朝食セット

初日に両替した分が少なくなってきて、ホテル並びの通りにある、ズィラート銀行に入り、両替をする。特に、Exchangeの表示がなく、銀行員にドル紙幣を見せると、1番のカウンターに行くようにいわれた。そこで50USドルの両替。ホテル名とパスポートの提示が必要だった。両替は時間がかかったものの問題なく、それでも係は、ドル紙幣を透かして見ていたりする。しばらくすると、「チャイは飲むか?」と訊かれ、もちろんとうなずく。すぐさまチャイのグラスが運ばれ、頂くことができた。まさかこんなところでチャイをごちそうになるとは思ってもいなかったことである。しばらくすると、名前を呼ばれ、8155万TLが手に入った。

アタチュルクの銅像<下左>から、アナトリア文明博物館(考古学博物館)への坂道<下左中>を急ぐ。アンカラ城へ向かっていけば、問題ない。それにしてもすごい坂道である。このあたりは、やや観光ずれした者もいるのか、こちらのあとをついてきては、なにやら「ジャポン」などと口にするものもいて、あまり気分は良くない。アナトリア文明博物館<下中>の入場料は、トルコにしてはやや高く、800万TLである。ここも、三度目だが、内部にある、ヒッタイトのレリーフなどを、デジカメと一眼レフの明るいレンズで撮影しておきたい。入って右側に、アナトリアの遺跡から出土したかつての住居跡の内部<下右中>を再現したところがあった。

アタチュルク像 アップタウンにありながら、雰囲気としてはした町 アナトリア文明博物館 住居の再現 キベレ

中に入るが、坂道を歩いてきたおかげで、汗だくである。この日のアンカラは、天気が良く、中に着ていた服が一枚いらないくらいであった。少し涼む。この間に、一眼レフのレンズを標準に付け替えて、準備はOK。はじめの展示物から見ていき、有名なキベレ<上右>を見ていると、前の方からやってきたおじさんの集団の一人が、英語で話しかけてきた。
「やあ、どこから来た」
「日本です」
「それはいい。私は、朝鮮戦争の時に日本に行ったことがある。あの時は、1ドルが、360円のレートだった。日本では、新橋の近くに駐留した。一番高い建物が、松坂屋で、そのあとは、鎌倉や大阪、神戸に行ったさ」
などというとりとめもない話だったが、この人は博物館のガイドだったのである。もちろん引き下がってもらったが、また別のところで違うガイドにも話しかけられたりした。特にしつこいわけではない。アナトリアでは動物の遺跡などもあり、ブロンズ製の鹿<下左>などもある。

ブロンズ製の鹿 動物を従える人物 戦いの構図 同じく戦い 王と思われる人物の頭部

中央の広い部屋が、ハットゥシャスやヤズルカヤなどのヒッタイトの遺跡から出た、レリーフ<上左中、上中、上右中、上右>がずらりと陳列されている。内部はフラッシュ撮影禁止なので、デジカメのノーフラッシュ撮影と、わずかな光を頼りにする、標準レンズでのスローシャッター撮影が必要なのだ。ここに来るのは初めてではないが、時間の制限がないので、好きなだけ見ることができる。最後に、売店で絵はがきを購入。5枚で、100万TL。はがきを選んでいると、2回目に話しかけてきたガイドが、「もう終わったのか」と話しかけてきた。

アンカラ城 シミット売りとスカーフ姿のムスリマ ユリアヌスの柱 遺跡の残骸 ゲジェコンドゥの建ち並ぶ丘

ここからは、ホテル近くに、ユリアヌスの柱とアウグストゥスの神殿というものがあるので、そちらに行ってみる。途中右手にアンカラ城趾<上左>を眺めつつ、坂を下る。下ると、再び下町のような雰囲気<上左中>ユリアヌスの柱<上中>は、ドルムシュのターミナル近くにあり、官庁のような建物の間の広場の中にあった。ただそれだけである。アウグストゥスの神殿は、結局よくわからなかった。こちらは駐車場とモスクがあり、その間にわずかにローマ時代と思われる建物のごく一部<上右中>が残っているだけである。しかし、ここからは、アンカラ城やその先にある、ゲジェコンドゥ<上右>(註6)と呼ばれる不法に住み着いてしまった人たちの住居がびっしりと建ち並ぶ様が観察できた。(註6…一夜作りのという意味がある。最初の頃はほとんどバラックのスラムのような感じらしかったが、現在では自主的に整備が進み、電気が引かれているのはもちろん、中には建て売り住宅もあるらしい。が、実態は、東部から出てきた貧困層がやはり住むところらしい。税金なども払っていないと思われる。)

彫像が建ち並ぶ 墓の跡 遺跡独り占め状態 カラカラ帝が作ったといわれている、蒸し風呂 テイクアウトのドネルサンド

ここから、ローマ浴場<上4枚>に行く。100万TLの入場料。他には誰も入っていなくて、遺跡独り占めの状態。遊歩道以外は、歩くと土にめり込みそうだ。ここを出て、ホテルに向かうが、その前に昼食を確保しておかなくては。ホテル前をいったん通り過ぎ、ドネルケバブを作っているところまで歩く。ドネルサンド<上右>、エキメッキ半分の長さで、75万TL。これをテイクアウトし、ホテルの部屋で食べた。

部屋をチェックアウトし、メトロとアンカライで、アシュティへと向かう。アシュティでは、客引きがどこへ行くと必ず訊いてくる。しかし、ほとんどが行きたい方面へのバス会社を教えてくれるので、これに素直に従って良さそうである。コンヤに行くことになっているので、Ozkaymak(Oは上に点が二つある)というバス会社でチケットを購入。1000万TL。急いでいたようなので、バスの乗り場を訊くと、この裏ということである。そこに行ってみると、コンヤの表示をつけたバスが待機していた。荷物係に荷物を渡し、乗り込む。

乗り込むと、席のチェック係が場所の確認をしていた。チケットを見せると、とりあえずそこに座っておけというように、空いた席を示してもらった。隣は、アメリカ人に見えたが、トルコの新聞を持っているので、トルコ人なのだろう。いきなり、ビスケットを勧められたが、ここでちらっと頭をよぎったのが、睡眠薬を使った強盗の件。まあ、昼を安直ではあったが、食べたばかりなので、丁重に断る。そうは心配しなくてよいと思うが。蛇足ながら、このあとしばらくすると、ガムを勧められ、こちらは、紙にくるんであったので、ポケットにしまう。

バスは乗り込んだのとほとんど同時のスタート。荷物を入れていたのが、バスの助手で、この人がバスの中を仕切っている。前の席の男性が、イヤフォンで音楽を聴いていたのだが、音漏れを注意していたりする。ちなみに、トルコのバスは、全席禁煙、携帯電話も禁止。また、靴を脱ぐ行為も禁止である。その旨は、簡単な絵でも表示されているので、誰にでもわかる。また、途中、なぜか席替えがあった。一度座った席であるが、表示と違うので、一番後ろの空いたところにさせられた。そのかわり、その位置にいた女性が席替えである。一番後ろは、揺れはひどいようだが、あまり暖房もきつくなく理想的である。しかし、このあと、再びあの助手によって、元の位置に戻されてしまった。何がなんだかわからない。

コンヤに到着、オレンジのバスが乗ってきたものバスは南に向かって走るが、次第に雪景色になってきた。途中、トイレ休憩が1回あったが、予想以上に早くコンヤのオトガル<左>に到着した。ここからは、市内までドルムシュやミニバスが出ているはずなのだが、どれかわからず、結局近くの幹線道路まで出て、トラムヴァイに乗ることになった。1回、40万TL。座席はふさがっていて、立つことになった。それにしても、どこで降りていいのやら。コンヤの街は、アララッディンの丘を中心に成り立っているが、トラムヴァイもここをぐるっと一回りして、元に戻る仕組み。そろそろ丘にさしかかるのだが、しばらくすると人がどっと降りる。にぎやかそうな通りなので、一緒に降りたが、目指すところと違うようであった。

信号待ちをしていると、トラムヴァイに同乗していた黒ずくめ(註7)の女学生が、どこに行くのか訊いてきた。メブラーナ通りに行きたいというと、そこは知らないという。とはいえ、一緒について来るようにいわれる。結局、ガイドブックを出して、この通りと指し示すと、トラムに沿って歩き、一つ目の道を右ということを教えてもらった。相手は辞書を出しての会話でもある。(註7…コンヤは非常に宗教的な都市であり、信仰も深い模様。イスラムの教義に基づき、女性は肌を露出しない。他の都市では、せいぜいスカーフを被るくらいだが。さらにハードな地域となると、顔も出さずにオバQ状態となる。)

しかし、たどり着いたものの、通りが広場のようになっていて、またしても迷ってしまう。なるべく明るい方へと歩くが、何とかガイドブックに載っているホテルがあらわれた。ここに吸い込まれるように入る。フロントは、珍しく女性である。2泊希望でOK。ここでもまずはチャイ。

部屋<下左、下左中>は、バスタブなどがなかったものの、快適。ただし、ムスリムホテルなのか、祈祷用のじゅうたん<下中>があった。おそらく、アルコール類は置いていないだろう。荷物の整理をしていたら、ドアを叩かれ、ボーイが、皿を持って立っていた。バクラワ<下右中>(註8)のサービス。このあと、街に出るが、まったく単純な間違えで、メインストリートには出ることができなかった。それでも閉店間際のロカンタで夕食<下右>。豆の入ったスープ、チキンの煮込み、米のピラウとネクタリンのジュースを注文。お勘定は、700万TLである。ついでに、スーパーを見つけ、歯磨きと水、喉用の飴で260万TL。歯磨きは、イタリアでほとんど使い切っていたので、買い足した。サフランボルが寒かったためか、ひどく喉が痛いので、飴を買うことにしたのだ。(註8…パイ生地を重ね、蜜で漬けられた菓子。とんでもなく甘い。)

ベッドルーム シャワールーム これを敷いて祈る バクラワ ほとんどバットに入っていた、残りの材料でできるもの

すでに真っ暗ともいっていい、コンヤの街だが、石炭使用率が高いらしく、街が煙って見える。スモッグともいっていいかも知れない。ホテルの部屋にいても、わずかな隙間から、石炭の匂いが漂ってくる次第で、一酸化炭素中毒などにはならないだろうなと心配になってくる。ともあれ、2002年はこれで終わり。街ではイスラム歴なのであまり関係ないが、テレビでは、「行く年来る年」のような番組をやっていた。<Next→コンヤ


イスタンブル到着 サフランボル コンヤ イズニック ブルサ イスタンブル帰国

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