熱々バンコク・アユタヤを行く〜タイの鉄道と猿の町

ロッブリー駅の猿のモニュメント

アユタヤ3日目。この日は気分を変えて、隣町のロッブリーに足を伸ばすことにした。

2003/03/31(Mon:第6日)タイの鉄道と猿の町<アユタヤ 晴れ ロッブリー 晴れ>

アユタヤ駅8:55-(ordinary205)-10:03ロッブリー駅〜ロッブリー市内観光〜ロッブリー駅12:55-(rapid106)-13:50アユタヤ駅〜アユタヤ市内観光〜Hotel Ayothaya

朝食のレストランに行くと、ビュフェの用意ができていなかった。ウェイターが出てきて、アメリカンブレックファストかどうか訊く。この日はロッブリー(註1)に行くので、早起きをしていて、まだ準備ができていなかったのかと思ったが、どうやら宿泊客が少ないためのようだった。運ばれてきたのは、トースト2枚と、卵2つを使った、目玉焼き、ハム、ソーセージもそれぞれ2つ。他にはサラダの野菜である。もちろん、ジュースとコーヒー(または紅茶)もそれぞれ好みを訊かれ、個別に運ばれる。けっこうボリュームはある。(註1…クメールの支配下にあったところで猿が多い。)

朝食の屋台などがありにぎやか 中州側の船着き場 斜行して駅前へ

昨日のトゥクトゥクの運ちゃんから、ロッブリー行きの鉄道の時間は、8:20頃と聞いていた。ホテル前は、朝の喧噪<上左>。朝食の屋台などがあり、にぎやかである。ここから駅までは、渡し船<上中、上右>を使う。これには、2ルートあり、直線で渡るのが、1B。斜行していくのが、2Bである。ホテルからは、斜行するものの方が近い。料金は、チャオプラヤー川の渡し船のように、入り口で払う。船は、まったくシンプルな造りで、対岸までの距離もぐっと近い。

船を下りると、すぐに駅前である。この時、ちょうど8時になったらしく、タイの国歌(註2)が流れたようだ。ただし、ほとんど立ち上がってその場を動かないという人はいなかったようだ。窓口で切符を買おうとすると、ちょうど鐘が鳴り、別の窓口に行くようにいわれた。ちょうど、ロッブリー方面への列車が発車しようとするところで、鐘の合図は、切符の発売の停止のようだった。別の窓口でロッブリーまでというと、「少し待って」といわれ、窓口が一瞬閉まる。列車が発車すると、窓口がまた開き、無事に購入することができた。ロッブリーまでは、三等で13Bという安さ。切符は、しっかりとコンピューター発券なのである。ただし、三等なので、座席指定はなし。(註2…朝8時と夕方6時には駅前などで流れることになっている。この間直立不動とのことだが。)

アユタヤ駅<下左、下中>には、英語の時刻表もあり、けっこう列車があることがわかる。切符によれば、8:44の発車。時間になるが、列車はやってこず、黒板にタイ語でなにやら注意書きが書き加えられていたが、205という数字があり、その横に、8:55というのがあったので、少し遅れが出たというのがわかる。助役らしき人が出てきて、緑と赤の旗を持ち、列車を待っているようだ。そろそろか。と思っていると、その助役らしき人が、声をかけてきた。切符を見せ、「ロッブリー」というと、「ここだ」というように、うなずいていた。このホームでよかったようだ。

簡単な行き先表示 駅舎に一番近いホーム これでロッブリーへ

列車<上右>が来た。ディーゼル機関車に引かれた客車である。乗り込むが、ほとんどの座席が埋まっている。空席を求めて前に移動。一番前の車両で、やっと空席を見つける。荷物を置いていた僧侶が、それをどかし、詰めてくれたのである。列車は、もちろん空調などはなく、自然の風が頼り。日光が当たる側は、ブラインドの雨戸みたいなものをほとんどの人が降ろしていた。従って眺めも悪い。そんな満員の車両の中を、何人もの物売りが声を出して行き来する。中には、オフィシャルの売り子もいるのだろうが、ほとんど手作りの弁当や、店から買いだしてきた、アイスクリームとか飲み物などを売り歩いているのは、これを生業にする人なんだろう。車両内を何度も行き来する回数は、ほとんど数え切れない。終いには、彼らの呼び込みに、眠くなってくる始末である。

ロッブリー駅 ワット・プラシー・ラタナー・マハタート 首のない仏像 ロッブリーで一番高いプラーン プラーンを取り巻くチェディ

ロッブリーのひとつ前の駅で、駅名標が見えた。たまたま、英語表記もあったので、そのことがわかる。ロッブリーに到着し、周りの人に訊いて、確認して降りる。ロッブリー駅<上左>には、猿のモニュメントがあった。帰りの時間を確認しておこうと思ったが、あいにくと、時刻表はタイ語のみ。まあ、何とかなるだろう。駅を出るとトゥクトゥクの運ちゃんから声をかけられた。しかしそのまま、目の前にある、ワット・プラシー・ラタナー・マハタート<上左中>へ。入場料、30B。午前中だからか、標高が高くなったのか、ロッブリーはアユタヤよりも涼しい。がらんとした建物の中に、首のない仏像<上中>があったが、きちんと袈裟を着せられていた。中央にあるプラーン<上右中>は、クメール様式でロッブリーでは一番高いものである。ここの遺跡も、半分崩壊しているような感じだが、芝生が奇麗に刈り込まれ、観光客が少ないのがまた嬉しい。基本的にはクメール様式だが、チェディ<上右>などはその後各時代に修復をされ、いろいろな時代のものが混じり合った建築群である。

タイ式建築 折衷様式の宮殿 タイ式トイレ 壁に彫られたレリーフ 象の前で

次に、プラ・ナラーイ・ラーチャニウェート宮殿へ向かう。ちょうど、遺跡から裏に抜ける道があり、すぐに着いた。ここは、国立博物館も兼ねているのだが、あいにくと博物館は休業日である。それでも、入場料30Bを払って見学する。ここは、いくつかの宮殿が集まったものでそれぞれが博物館となっている。純白のタイ式建築が、チャンタラ・ピサーン宮殿<上左>。1655年にナラーイ王(註3)の住居として建てられたものである。その隣のタイ、クメール、ヨーロッパの折衷様式の建物が、ピマーン・モンクット宮殿<上左中>。こちらは、ラーマ4世(註4)が仮の住居として1856年に建てたものである。これらの建物は、休館日を利用してか、修復作業が行われていた。また、たまたまトイレに寄ると、誰もいなかったので、タイ式のトイレ<上中>(註5)を撮影しておいた。やはり紙がなく、水槽があってここから汲んで使うようである。ここから、奥に進むと、崩れかけた建物があったが、ここもナラーイ王の宮殿跡のようである。レリーフ<上右中>の前には供え物があり、象や馬のミニチュアがモニュメントとして飾ってあった。象のミニチュアの前で記念撮影<上右>。崩れかけた一帯であったが、城壁はかなり立派で、素晴らしい門<下左>もあった。(註3…アユタヤ朝27代の王。)(註4…現王朝は、チャクリー朝またはラタナーコシン朝と呼ばれ、王の称号として「ラーマ」が使われる。現国王はラーマ9世、プミポン国王。)(註5…トルコ式と同じくしゃがみ込むタイプで、紙を使わず水で流す。扉を向いてしゃがむのは同様。ちなみに、観察はしたものの、使用しなかった。)

堅牢な作りの門 忽然と現れる遺跡 バス待ちの制服組 チャオ・プラヤー・ウィチャエンの家 基本的には洋式建築

次に、古い時代の大使館のような建物跡へ向かうが、途中にプラーン・ケーク<上左中>という、遺跡が道の真ん中に取り残されたように忽然と現れる。その先で地図を見ていると、近くに学校でもあるのか、制服姿の少年たち<上中>がバスを待っていた。そういえばあまりタイ人の姿を写真に撮っていなかったということを思い出し、シャッターを切る。そして、大使館跡のチャオ・プラヤー・ウィチャエン(註6)の家<上右中、上右>というのは、ほとんど外壁と基礎部分しか残っていなかった。左から彼の家、カトリック礼拝堂、使者団の宿泊所となっている。ここも、入場料30B。使者団の宿泊所跡は、犬のすみかになっているようで、生まれたばかりの犬もいた。(註6…ルイ14世の大使、シュヴァリエ・ド・ショーモンのために建てられたものだが、後にコンスタンティン・プファウルコンが長く住み、彼のタイ名がここの呼び名となった。ここもナラーイ王が建てている。)

プラ・プラーン・サム・ヨート 3基のプラーン 三位一体ということらしいプラーン 取り残されたかのような仏像 プラ・プラーン・サム・ヨートの猿

次に、プラ・プラーン・サム・ヨート(註7)という、真ん中にクメール様式の3基のプラーン<上左、上左中、上中>のある、仏教寺院に行く。ただし、このあたりは猿が多く、ここに近づくと、次第に猿を見かけるようになる。こちらも、入場料30B。真ん中ほどに首を落とされていない仏像<上右中>があった。外を一周すると、そのプラーンのあたりに、猿<上右>がうようよいる。ひとつのコミュニティを形成しているようだ。プラーンの中にも入れ、ここには、首を落とされた仏像があった。しかし、内部は、猿の排泄物の匂いか、アンモニア臭かった。もしかしたら、コウモリのものかも知れないが。(註7…3基のプラーンはブラフマー、ビシュヌ、シヴァのヒンドゥ神の三位一体という意味があるらしいが、後に仏教寺院とあらためられたところである。)

ここから、踏切を渡ると、入場料のいらない、サーン・プラ・カーンという、現役の寺院がある。いきなりの猿のコンクリート像<下左>がお出迎え。こちらも猿が多く、観光客を尻目に悠然と猿が闊歩するところである。像の横の階段を上がると、寺院の本尊<下左中>らしいものがあり、かなりの人が入り込んでいた。建物から外れたところは、ベンチなどがある広いスペース<下右中>だが、やはり猿(註8)が闊歩している。それにしても、今まであまり見かけなかった、欧米系の旅行者(註9)もたくさんいて、猿の写真などを撮りまくっている。そんなに猿が珍しいものなのか。(註8…普通にしていればあまり問題はないが、食べ物を見せると飛びかかってくるそうである。日本の猿園の猿の方が凶暴かも知れない。)(註9…ちなみに、白人のことをタイ語で「ファラン」と呼ぶ。アフリカ系の旅行者も少なくはないが、肌の色が白いことにこだわるタイ人の美意識にとっては、彼らは好まれないらしい。ちなみに、ファランの中には、あからさまにアジアの人に対して差別意識を丸出しにしたようなやつがいる。)

猿のコンクリート像 あまり面白味のなかった本尊 猿が闊歩するスペース スパイシーな海鮮焼きそば

見るものも見てしまい、アユタヤに戻ることにする。ちょうど昼に近く、食事をしてから戻ることにする。線路沿いには、簡単なレストランもあったが、宮殿前に、こぎれいな店があることを思い出し、ここに入る。ここにも、英語メニューがあり、ペプシと、海鮮の焼きそば<上右>にする。辛さの段階を訊かれた。スパイシーということにする。麺の太さは、うどんくらいのもので、米の麺だ。スパイシーというくらいで、クローブの実が入っている。かなり美味い。料金は、50Bだった。

駅に戻り、窓口でアユタヤと告げると、「速い列車があるが、少し高い、どうする?」と訊かれるが、もちろんこちらにする。料金はぐっと高くなり、40B。列車が来るまで時間があるが、日陰のベンチで過ごす。しかし、時間になっても、まだ来る気配がなく、またしても遅れているようだった。結局、30分くらい、遅れた。やがて、アユタヤ方面から、貨車が到着する。このあたりは単線なので、この列車をやり過ごさなくては、バンコク方面の列車が来ないのであろう。

やってきたのは、ディーゼルの通勤タイプ<下左>。しかし、空席は全くなく、ずっと立って過ごす。確かに、朝の列車よりはスピードは出る模様で、途中の駅も、いくつか通過するものがあった。また、このタイプにも、物売りが出現する。アユタヤ駅<下左中、下中>ではホームから離れたところに止まり、周りに訊いて、確認して降りた。

やっとロッブリーに到着したディーゼル 線路を歩いて横切り駅舎へ アユタヤ駅 川の規模にしては大きな船が通る チォオプラム市場

駅前でトゥクトゥクを拾って、残ったところを見て回ってもよかったのだが、今の車内でまた身体が熱くなってしまった。ホテルに戻って、水シャワーを浴びたい。ということで、渡し船で戻る。ちょうど学校の下校時間なのか、制服の中学生がやってくるところだ。タイの中学生は、男子は半ズボンである。そんな中に、髪を伸ばし、口紅をつけたのが一人いた。タイは、そんなジェンダーの表し方が寛容なのだなあと思った。また、渡し船<上右中>の乗り場では、ゲストハウスの客引きがいて、誘われた。船を下りるとまだ昼下がりの喧噪が残っているようである。市場<上右>のあたりもにぎやかである。ホテルに戻り、しばらく休養。

身体を冷やして、ホテル前のトゥクトゥクと交渉。ガイドブックを見せ、行きたいところを示す。ワット・ヤイ・チャイ・モンコンとワット・チャイワッタナラームである。この二つは場所が離れていて、結局、2時間250Bということになる。ガイドブックを見て、運ちゃんは、どのページにトゥクトゥクを借りる際の相場が載っていることを知っていた。

ビルマとの戦勝記念である 寝釈迦仏、かなりの規模である コブラの石像 袈裟を着せられた仏像が並ぶ ほとんどは首がついている

はじめのワット・ヤイ・チャイ・モンコンは、アユタヤの東部にある。もちろん、川を渡る。なぜかここだけ、20Bの入場料で、入場券もここ独自のもの。寺自体はアユタヤ朝初代の王ウー・トーンが建てたが、中央の仏塔<上左>はナレースエン王が建てた。ここを訪れると、一番に目につくのがこの仏塔である。ここから進むと、ここにも寝釈迦仏<上左中>が横たわっていた。この寝釈迦仏にも、ところどころ金箔が貼られている。さらに進むと、祠のようなものがあり、コブラをかたどった石像<上中>があった。コブラ(註10)にも金箔が貼られている。チェディを素通りして、進んでいくとずらっと仏像の並ぶ広いところ<上右中、上右>に出る。ほとんどが首つきで袈裟を着せられている。かなり整備されている印象がある。また、坊さんなどもいて、現役の寺院であるようだ。ここは、日本人観光客がかなり多い。ほとんどがツアーなどで回っている人たちのようだが、目についたのは、学生くらいの若い集団。そのまま日本からやってきたような感じの人たちだ。仏塔のそばには、大仏<下左、下左中>といってよいものがある。中央の仏塔に登る。上<下中>からは眺めがよい。仏塔<下右中>自体は、セイロン洋式。ワット・ヤイ・チャイ・モンコンがセイロン帰りの僧侶のために建てられたからである。再び、仏像の並ぶところに降りて、記念撮影<下右>をした。(註10…ナーガと呼ばれ信仰の対象である。)

仏塔と大仏 おそらくアユタヤで一番大きな石の大仏 上からの眺め セイロン式の仏塔 仏像と同じポーズで

次のワット・チャイワッタナラームは、アユタヤの西部にある。再び、アユタヤの中心をまっすぐ横切り、また川を渡るのである。こちらは、広大な敷地に、規模の大きい比較的破壊の度合いの少ないプラーンとチェディの建物群<下左、下左中>があった。入場料30B。大きな石仏などもある。どうやら、ここは修復されてあるらしいが、その工事も終わったので、その姿がよみがえったものと見える。ここはかなり時間をかけて見た。周りに遮るものがなく、アユタヤで一番気に入ったところとなる。中央のプラーン<下中>には、途中まで登ることができ、ここからの眺め<下右中>も素晴らしい。ここも最後に記念撮影<下右>をして去ることとする。

まとまり具合が美しい 東側からシルエットを望む 途中まで登れるプラーン プラーンの周りが眺められる 記念撮影

見終わって、トゥクトゥクに近づく。運ちゃんはいったんガソリンを入れに、スタンドに立ち寄るが、ここで、まだ時間があるので、入場料のいらない寺<下左、下左中>に案内しようということになった。運ちゃんが指し示したのは、アユタヤ公園内にある寺院のようだったが、中州には入っていないので、近くにある、ワット・ワラチェットかワット・ラーチャブリーのどちらかだろう。遺跡ではなく、現役の寺院で、3つの建物に、それぞれ仏像<下中、下右中>があった。入り口で、一般人に「どこから来た」と訊かれた。また、このあたりでは、ネットを挟んで足や頭を使う球技、セパタクロー<下右>をやっていた。

現役の寺院 寺院の入り口 まるでできたばかりのようや輝き 骨董的価値はないと思われるが、金はかかっているか 草セパタクロー

ホテルまで送ってもらうと、昨日のトゥクトゥクの運ちゃんが客待ちしていた。少し話が弾む。ちなみに、「マイフレンド」と呼ばれたが、まあ悪い気はしない。部屋で休み、ホテルの裏の方にある、ゲストハウスを兼ねたレストランに行こうとすると、再び会った。翌日はバンコクに戻るというと、何時頃か訊いてきた。

レストランに入ると、「ちょっと待って」といわれ、日本語が話せる女性の従業員を呼んできた。ビア・チャンの缶、牛肉とシーフードのサラダであるヤム・ウンセン<下左>イエロー・カリー<下中>白米<下右>をもらう。「ご飯食べますか?」とか「美味しいですか?」程度の日本語だが、注文を取ったりするのに問題はない。

ヤム・ウンセン カレーの中でも一番マイルドな味 もちろんタイ米

ヤム・ウンセンは、かなり辛いと聞いていたが、このゲストハウス界隈は、欧米人が多く、それほど辛くしていないようだ。カレーも同じで、スパイシーではあるが、ご飯とマッチする。また、店内には、日本人みたいな顔の従業員もいて、足下に蚊取り線香を持ってきてもらったが、タイ人であった。ご飯の量も多く、これだけでかなり満腹する。全部で、200B。もっと早くわかっていたら、別の日も来ていたのに。<Next→バンコクショッピング


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